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ハンス (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク公) : ミニ英和和英辞書
ハンス (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク公)[こう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ブル : [ぶる]
 【名詞】 1. bull 2. (n) bull
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate

ハンス (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク公) : ウィキペディア日本語版
ハンス (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク公)[こう]

ハンスまたはヨハンデンマーク語:Hans den yngre;ドイツ語:Johann der Jüngere, 1545年3月25日 - 1622年10月9日)は、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク(セナーボー)公。ゾンダーブルク家の始祖。同名の叔父のハンス老公と区別するため、「若い」を意味するデン・エングレ(den yngre)の異称で呼ばれる。
== 生涯 ==
ハンスはデンマーク王クリスチャン3世とその王妃ドロテアの三男として生まれた。1564年1月、兄のフレゼリク2世王はハンスにシュレースヴィヒ公国ホルシュタイン公国におけるデンマーク王領の3分の1にあたる、セナーボー(ゾンダーブルク)、ノーボー(ノルブルク)エーレ島プレーンおよびアーレンスベックを譲った。
しかし1564年、シュレースヴィヒ、ホルシュタイン両公国の等族はハンスに対して忠誠を誓うのを拒否し、このためシュレースヴィヒ=ホルシュタインの主権者は引き続きフレゼリク2世とその叔父のゴットープ公アドルフであり続けた。ハンスは自分の領国内でしか統治者として振る舞えない(つまりシュレースヴィヒ、ホルシュタイン全体の統治者を名乗れない)が、その代わり領国においては大幅な統治権を有する「主権の分有者(Abgeteilte Herren)」とされた。経済に関心の深いハンスは、重商主義的な政策を採用して西ヨーロッパに穀物を輸出し、自分の国庫を豊かにした。ハンスはフレンスブルク・フィヨルドグリュックスブルク(リュクスボー)城を建設したほか、公爵家の居城であるセナーボー城を莫大な費用を投じて改築した。
ハンスは1568年にブラウンシュヴァイク=グルベンハーゲン公エルンスト3世の娘エリーザベトと結婚し、1586年に死別した。そして1588年にアンハルト侯ヨアヒム・エルンストの娘アグネス・ヘートヴィヒと再婚したが、彼女とも1616年には死別した。ハンスは二度の結婚を通じて23人(11男12女)の子供をもうけた。ハンスが1622年に77歳で死んだとき、その遺産は存命中だった6人の息子のうちの5人によって分割相続された。分割相続は当時の封建領主の家系ではごく一般的な慣行だったものの、ハンスが5人の息子たちに遺産を分けたことは、シュレースヴィヒ=ホルシュタインの分裂を防ぐために結ばれたリベ条約(1460年)の主旨を無視するものだった。ハンス以後、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク公爵領は数多くの傍系による分割相続によって微細な小領地群へと分裂していった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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